父の事、自分の事

1月末に放射線治療が終わり、あれから3カ月。

初めてのかかりつけ医での3カ月に一度の定期健診にそろそろいく時期。

今まで私が風邪等で通っていた個人院の内科はお爺さん先生で、数年前より先生の年もあり営業時間縮小となっていた。

そのため、乳がん定期健診のための病院を新たに決めなくてはならない。

父がそうであったように、私も癌で死ぬかもしれない。

癌の種類も違うし、父と私は別の人間で同一ではない。

父は自宅での死を願い、先生の静止(正確にはもう通院という段階ではないので、最期を迎えるための施設を決めてくださいと告知された)があるまでギリギリまで通院し、自宅への訪問看護に切替え、最期を迎えた。

癌で死ぬということの段階は、日常を同じくする中で父に教えてもらえたような気がしている。

私はわからない事への恐れが強い人なので、こうなっていくんだという一端を見たことでその恐れは、すごく軽減されている。

私は父ほど頑張るつもりはない。というか頑張れない。父は頑張りすぎた。

父は、癌の痛みの段階はもっと先があると思っていたようで、それが最期の痛みであるとは思わないまま痛み止めの強さレベルを温存し、我慢もしていた。

訪問介護士さんに、毎日痛みレベルを聞かれていたが、最期の二日前まで5段階の3で前日で4。最後まで5とは言わなかった。

最期まで脳はしっかりしていた。

モルヒネで寝たままになるのが嫌だというのでも無く、ただただ感情に身を任せていたような気もする。

病気を克服できない事を悔しいと口にし、納得できない怒りにまかせて、こんなものには自分は屈服されないとでもいうように痛みに挑戦していたような節もあった。

とにかく始終怒っていた。

父らしいといえば、父らしい。父の感情のあり様については、当時も辛く、今も辛い。「父らしい。頑固も頑固。父は自分を貫いたねー」とよく姉と話す。

父は最期まで父だった。

私はどうか?

父を思いながら、自身はどうかと考えた。

もし私が再発して治療がうまくいかなかったとき、私は施設に入り痛みに応じて強い痛み止めを処方してもらい、可能な限り痛みを感じないように眠っていたい。

あくまで現時点の心持の話であり、自身の状況も家族の状況もその時どうだかは分からないし。

再発しないといいなと願う。

だけど、した時の心の覚悟もある程度はしておきたい。

長生きしたとしても、始まりと終わりでは終わりが近い年になっている。

終わりに対して慌てたくはないなと、ぼんやりと思う。